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老人は杖をサッと振って「犬は嫌いだ!」と叫んだ。

虹の橋を渡る日まで

その老人は杖をついてゆっくり向こうから歩いてきた。私とワンコが散歩をしながらすれ違おうとした時、老人は杖をサッと振って「犬は嫌いだっ!」と叫んだ。

私も犬も思いがけない行動にびっくりして飛び上がった。杖を振り回して犬にケガをさせられたらたまらない。とっさに走って近くの公園に逃げた。いつものように、顔見知りの飼い主さんの姿を見かけたので、思わず走り寄って、「よかった、いてくれて。あそこで老人に『犬は嫌いだ』って言われたの、どうしよう」と訴えた。

顔見知りの飼い主さんもびっくりして、「大丈夫?ケガしなかった?ここ、座って」と心配してくれて、「あの老人、有名なヒトなのよ」と教えてくれた。「私もこの子とすれ違った時に『犬は嫌いだっ!』ってやられたわ、びっくりするわよね」と同情してくれた。このあたりでは知られたおかしな行動をする人らしい。

「奥さんと二人暮らしだった時から、ああやってずっと散歩してたんだけど、奥さんが亡くなってから、ボケちゃったみたい。犬の飼い主にだけ、嫌いだっ!て杖を振るうけれど、ケガをさせるようなことはしないから大丈夫だよ」となぐさめてくれた。

いきなり見知らぬ人に攻撃されたのは初めてだったし、何よりワンコとの楽しい散歩に泥をかけられたような出来事に衝撃を受けた。確かに世の中には犬が嫌いな人は多いけれど、面と向かって嫌いだと言われるなんて、ショックでたまらない。

うちの子は他人に吠えかかることもしないし、小型犬で見た目が怖い犬ではない。むしろ、こんなに見た目の可愛い子を好きにならない人はいない、と密かに思うのだが、それは飼い主だからだ、と、理解しているつもりだった。

でも、現実に「こんなに可愛いワンコでも、嫌いな人がいる」という事実を見せつけられると、本当に切ないし、悲しい。あのおじいさんは昔、犬と何かあったのだろうか。この子の真実の姿を知ったら、犬を好きになってくれるかしら?

ため息をつきながら食事をしていたら夫が心配してくれた。「そんなに悩まなくても、認知症なんだから、しょうがないよ」となぐさめてくれた。「感情がコントロールできない病気なんだから、悪意は無いんだよ」といつものように理詰めに分析するのだ。

確かにその通りだけれど、私は夫みたいに割り切れない。「そうよね、分かってる。でも、嫌いだっ!て言葉が、トゲみたいに刺さって、頭から離れないのよ」と訴えたら、「じゃあ、気分を変えて、週末はドッグランのある温泉に行こうか」と誘ってくれた。何かあるとうじうじ悩む私に比べて、夫はいつも前向きで正しい。

「ねえ、もしあなたが『犬は嫌いだっ!』ってやられたら、どうした?」と聞いてみた。

「もちろん、同じように逃げるさ」

「言い返さない?」

「ボケ老人なんだし、黙って逃げるが勝ちだよ」

「じゃあ、もし、言い返さなきゃいけないとしたら、何て言う?」

「そうだなあ、うーん、もし言い返すとしたら、『犬の嫌いな人は嫌いだっ!』かな」

老人の口調をまねて言うのが可笑しくって、つい笑ってしまった。私の笑い声に安心したのか、ワンコが膝に乗ってきた。そうよね、私も犬が嫌いな人はちょっと苦手だわ。こんなに可愛い犬を嫌う神経が、理解できないんだもの。虹の橋を渡る日まで、犬のいる幸せを存分に味わって、犬嫌いの老人を見返してあげればいいわね。

文/柿川鮎子

「犬の名医さん100人データーブック」(小学館刊)、「犬にまたたび猫に骨」(講談社刊)、「動物病院119番」(文藝春秋社刊)など。作家、東京都動物愛護推進員)

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